明治時代のかるかん文化 – 西洋化の波に揺れる薩摩の伝統菓子
明治時代、日本全体が急速な近代化を遂げる中、鹿児島の伝統菓子「かるかん」もまた大きな転換期を迎えていました。江戸時代から薩摩の地で愛されてきたこの和菓子は、西洋の製菓技術や食文化の流入により、その姿を少しずつ変えながらも伝統を守り続けていきました。
西洋と和の融合—明治初期のかるかん
明治維新後、薩摩藩出身の多くの政治家が中央政界で活躍する中、鹿児島の食文化も全国に広がりを見せました。特にかるかんは、その軽やかな食感と上品な甘さで、徐々に薩摩の地を超えて認知されるようになりました。

当時の記録によれば、1877年(明治10年)の西南戦争後、鹿児島を訪れた政府高官や外国人賓客にかるかんが振る舞われ、その独特の食感が高く評価されたとされています。これがかるかんの全国的な知名度向上の契機となったのです。
明治中期の製法革新
明治20年代になると、西洋の製菓技術が日本に本格的に導入され始め、かるかんの製法にも変化が現れました。それまで薪を使った蒸し器で調理されていたかるかんは、より効率的な蒸気機関を利用した製造方法が一部で採用されるようになりました。
鹿児島県立図書館に残る明治33年の文書には、「新式蒸気釜によるかるかん製造所が城下に三軒を数える」との記述があり、伝統菓子の近代化が進んでいたことがわかります。
家庭文化としての定着
興味深いのは、明治時代中期から後期にかけて、かるかんが家庭でも作られるようになったことです。それまで専門の菓子職人が作る特別な和菓子だったかるかんですが、明治36年頃から各地で発行された料理本には、家庭向けの簡略化されたかるかんレシピが掲載されるようになりました。
特に明治40年代には、山芋(やまいも)の代わりに比較的入手しやすい長芋を使用したレシピや、蒸し器の代わりに鍋を活用した製法など、一般家庭でも手軽に作れる工夫が広まりました。こうした変化が、現代まで続くかるかん文化の基盤を形成したのです。
明治末期の地域性の確立
明治末期になると、鹿児島本来のかるかんに加え、各地域で独自のアレンジが施されたかるかんが登場します。例えば、熊本では栗を入れた「栗かるかん」、宮崎では蜜柑の風味を加えた変種が誕生したという記録が残っています。
かるかんの原点と明治維新 – 薩摩藩から全国へ広がる和菓子の変遷

明治維新という激動の時代、かるかんは薩摩の地から全国へと羽ばたき始めました。江戸時代に薩摩藩で親しまれていたこの和菓子は、明治時代に入り大きな変貌を遂げていきます。その変遷を紐解きながら、かるかんが日本の食文化においてどのように位置づけられていったのかを探ってみましょう。
薩摩から始まる明治のかるかん革命
明治維新(1868年)以降、薩摩出身の政治家や実業家が中央政界に進出するにつれ、かるかんは鹿児島の郷土菓子から全国区の和菓子へと徐々に認知度を高めていきました。特に西郷隆盛をはじめとする薩摩出身の要人たちが、江戸(東京)や京都でかるかんを振る舞う機会が増えたことで、この軽やかな食感の和菓子は上流階級の間で注目を集めるようになりました。
明治10年代の記録によれば、当時のかるかんは現在よりもシンプルな製法で、山芋と米粉を主原料とし、砂糖は控えめに使用されていたとされています。これは砂糖が貴重品であった時代背景を反映しています。
産業化と技術革新がもたらした変化
明治20年代から30年代にかけて、製糖技術の発展と砂糖の流通拡大により、かるかんの味わいは徐々に甘さを増していきました。また、蒸気機関の導入により、均一な温度で蒸し上げる技術が確立され、より均質で柔らかな食感のかるかんが作られるようになりました。
明治時代中期の和菓子店の記録によると、かるかんの価格は一般庶民にとってはまだ特別なものでしたが、祝い事や来客時に振る舞う「ハレの菓子」として徐々に広まっていったことがわかります。
文化的価値の確立と地域性の発展
明治末期になると、かるかんは単なる郷土菓子から「日本の伝統和菓子」としての地位を確立していきました。興味深いのは、全国に広まる過程で地域ごとの特色が生まれたことです。例えば、京都では抹茶を取り入れた「抹茶かるかん」、東北地方では黒蜜をかけて食べる食べ方が定着するなど、各地の食文化との融合が見られました。
明治43年(1910年)に発行された和菓子専門書「和菓子製法集」には、すでに7種類のかるかんレシピが掲載されており、この時代までに多様なバリエーションが生まれていたことが確認できます。
かるかんの歴史は、日本の近代化と文化の変遷を映し出す鏡でもあるのです。
明治期の製法革命 – 伝統技術と新しい道具が生んだかるかんの進化

明治時代、かるかんの製法は大きな変革期を迎えました。西洋の技術や道具が流入し、伝統的な和菓子の世界にも新たな風が吹き込まれたのです。この時代のかるかん製造における革新は、現代に至るまで私たちが楽しむかるかんの基盤を形作りました。
蒸し器の進化とかるかんの大衆化
明治期に入ると、それまで限られた場所でしか作れなかったかるかんが、一般家庭でも作れるようになりました。その大きな要因は蒸し器の変化です。江戸時代までは主に専用の木枠(かるかん蒸し器)を使用していましたが、明治時代には金属製の蒸し器が普及し始めました。
鹿児島県立博物館の資料によると、1880年代(明治10年代後半)には銅製や錫製の蒸し器が薩摩地方の菓子職人たちの間で使われるようになりました。これにより熱効率が上がり、均一に蒸し上げることが可能になったのです。
新しい素材との出会い
明治時代のかるかん製造におけるもう一つの革命は、素材の多様化でした。
* 砂糖の変化: 和三盆や黒砂糖中心から、精製された白砂糖も使われるようになり、より白く仕上がるかるかんが登場
* 山芋の品種: 従来の長芋に加え、新たな品種も取り入れられるようになり、食感の異なるかるかんが誕生
* 着色料の導入: 天然の食材だけでなく、新しい着色技術によって彩りあるかるかんも作られるようになった
鹿児島の老舗和菓子店「明石屋」の記録によると、明治30年頃には季節の花をかたどった色とりどりのかるかんが人気を博していたそうです。
明治期の「かるかん名店」の誕生
この時代、鹿児島だけでなく東京や大阪などの大都市でも、薩摩出身の菓子職人によってかるかん専門店が開業されました。明治23年(1890年)に鹿児島から上京した菓子職人・林田栄次郎が東京・日本橋に開いた「薩摩菓匠」は、宮内省御用達となるほどの人気を博しました。
かるかんの製法革命は、伝統を守りながらも新しい技術を取り入れることで、この銘菓をより多くの人々に広める原動力となりました。明治期に確立された製法の多くは、現代のかるかん作りにも受け継がれています。
宮中献上から庶民の味へ – 明治時代に変化したかるかんの社会的位置づけ

明治時代、かるかんは皇室から庶民の間へと広がりを見せ、その社会的位置づけに大きな変化が生じました。薩摩藩の名菓から全国的な認知へと発展するこの時代、かるかんは日本の和菓子文化において重要な転換点を迎えたのです。
宮中献上品としてのかるかん
明治維新後、鹿児島(旧薩摩藩)の名産であったかるかんは、その独特の食感と上品な甘さから宮中へ献上される菓子として高い評価を受けるようになりました。1877年(明治10年)の記録によれば、鹿児島の老舗菓子店が製造したかるかんが明治天皇へ献上され、その繊細な味わいが絶賛されたとされています。この出来事がきっかけとなり、かるかんは「格式高い和菓子」としての地位を確立しました。
鉄道網の発達とかるかんの普及
明治中期以降、鉄道網の発達により人や物資の移動が活発化すると、かるかんの製法や食文化も次第に鹿児島から他地域へと伝播していきました。特に1889年(明治22年)に鹿児島本線が開通すると、それまで地域限定だったかるかんの材料や製法の情報が各地に広まりました。
当時の新聞広告や商業記録を見ると、明治30年代には東京や大阪の老舗和菓子店でも「薩摩風かるかん」として販売されるようになった記録が残っています。これは、かるかんが地方の名産から全国区の和菓子へと変貌していく過程を示す重要な証拠です。
家庭での製造と普及
明治後期になると、それまで職人技とされていたかるかんの製造法が、家庭向け料理本にも掲載されるようになりました。1903年(明治36年)発行の「家庭料理の栞」には、簡略化されたかるかんの製法が記載され、一般家庭でも蒸し器を使った手作りかるかんが楽しまれるようになったとされています。
特筆すべきは、この時期に「山芋の代用として長芋を使用する方法」や「家庭用蒸し器での蒸し方」など、庶民向けの工夫が多数生まれたことです。こうした変化は、かるかんが特別な場だけのものから、日常的に楽しむ和菓子へと変わっていった明治時代の社会変化を如実に表しています。
かるかんは明治という時代の中で、皇室に愛された高級和菓子から、庶民の手に届く親しみやすい和菓子へと、その社会的位置づけを大きく変化させていったのです。
現代に受け継がれる明治のかるかん文化 – 伝統レシピの復元と再現方法
明治時代のかるかんは、時を経て現代に受け継がれています。その伝統的な技法や風味を今に蘇らせる方法を探ってみましょう。明治期の製法を現代の家庭でも再現できる具体的な方法をご紹介します。
明治時代のレシピを現代に復元する

明治時代のかるかんは、現代のものより素朴で、材料も限られていました。当時の製法を忠実に再現するには、次の点に注意が必要です。
– やまいもの選択: 現代の改良種ではなく、できるだけ在来種に近いやまいもを選ぶ
– 米粉の粒度: 明治時代は現代より粗めの米粉が使用されていたため、少し粗めの米粉を選ぶか、自家製粉する
– 砂糖の種類: 白砂糖ではなく、和三盆や黒砂糖など、精製度の低い砂糖を使用する
– 道具: 可能であれば木製の蒸し器や型を使用する(金属製の道具は明治中期以降に普及)
鹿児島県立図書館に保存されている明治30年代の料理書によると、当時のかるかんは「山芋三合に米の粉一合半を混ぜ、砂糖を加えて蒸し上げる」という非常にシンプルなレシピでした。これを現代の計量に換算すると、やまいも約540g、米粉約270g、砂糖適量となります。
伝統的な蒸し方の再現
明治時代のかるかん文化を体験するには、蒸し方にもこだわりましょう。
1. 強火で一気に蒸す: 明治時代は火力調整が難しかったため、強火で短時間で蒸し上げる方法が一般的でした
2. 竹の皮を敷く: 蒸し器に竹の皮を敷くことで、独特の香りが付きます
3. 蓋に布巾を巻く: 蒸気が落ちないよう、蓋に布巾を巻く方法は明治時代から続く知恵です
鹿児島県歴史資料センター黎明館の調査によれば、明治時代のかるかんは現代のものより若干硬めの食感だったとされています。これは、当時の蒸し器の性能や材料の違いによるものですが、この食感を再現することで、より本格的な明治時代のかるかん体験が可能になります。
明治時代の茶席文化と共に楽しむ
かるかん文化は単なる和菓子の楽しみ方にとどまりません。明治時代の茶席文化と合わせて楽しむことで、より深い文化体験になります。
– 白磁の小皿に盛り付ける(明治時代に輸入された西洋の影響)
– 煎茶と共に楽しむ(明治時代は武士階級以外にも茶文化が広がった時期)
– 季節の花を一輪添える(明治の茶席では季節感を大切にした)
明治時代のかるかん文化を現代に再現することは、単なる和菓子作りを超えた文化的体験です。材料選びから道具、作法に至るまで、一つひとつにこだわることで、150年前の薩摩の人々が味わった「ふわり」とした食感と文化を、現代の私たちも体験することができるのです。
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